いつか再び旅を!
コロナ禍は人々の行動を大きく制限した。
毎年のように海外へ旅をしていた私も、ここ3年間は日本から一歩も出ていない日々を送っている。
知らず知らずのうちに思考までが内向きになってしまったのか、それまであまり考えもしなかった「定年後の暮らし」や「老後の資金」の心配ばかりしている自分に時折ハッと気づき、「いかんいかん、もっと心を外へ向けないと、、、」と自分を戒めたりしている。
そんな日常の閉塞感を打ち破る目的もあって、今回はあえて旅の話を書こうと思う。
これまでに私は障害を持つ友人と三度、海外を旅した。
一度目は、脳性麻痺の友人(車椅子使用せず)とのタイ旅行、二度目はやはり脳性麻痺だが車椅子使用の友人とのスペイン旅行、そして三度目は筋ジスと脳性麻痺の友人たちとのカナダ旅行である。
どれもツアーでは無く、行きあたりばったりの個人旅行だったので、ハプニング満載の思い出深い旅になった。
タイ旅行に同行したのは、脳性麻痺のT(ふらつきながらの歩行が可能)だった。バンコクの空港に着いた最初の日から空港の硬いベンチの上でヤブ蚊に悩まされながら夜を明かした。町の移動はすべて流しのトゥクトゥクを拾い、泊まるのは南京虫が出そうな安宿ばかりだった。Tは、海外旅行が初めての上に、ふだんの私の旅のスタイルを押し付けられて、さぞかし迷惑だっただろう。さらに、バンコクではムエタイというタイ式ボクシングの試合に熱狂し、クワイ川のほとりのカンチャナブリという町では、ゾウの背中に乗ったり、竹のイカダで川下りをしたりと、私流のハードな旅に、歩行困難なTはよくついて来られたものだと、今思い返すと感心する。
スペイン旅行は、障害を持つ画家でピカソに憧れるMから、「一生に一度でいいから、この目でゲルニカを見てみたい、、、」と懇願されて実現したものだった。
私は、ガイド兼ドライバー兼介助者(他にも一名介助者が同行した)としてこの旅を先導し、旅行の費用はすべてMの親が出してくれた。マドリッドで車を借りて、カスティーリャの赤い大地を駆け抜け、アンダルシアの白い町を目指した。ラ・マンチャではドン・キホーテが突進した風車をながめ、グラナダでは、アルハンブラ宮殿を訪ね、ゴルドバでは本場のフラメンコを堪能した。そして旅のクライマックスは、もちろんピカソのゲルニカだ。巨大にそびえ立つ壁画のようなゲルニカの圧力に必死に対峙しようとする、車椅子に乗ったMの小さな後ろ姿が印象的だった。
カナダ旅行は、筋ジスと脳性麻痺の友人、それぞれの介助者と私、男5人のむさくるしい旅だった。やはり私は、ガイド兼ドライバー兼介助者であり、バンクーバーで車を借りて一路カナディアンロッキーを目指した。途中、バンクーバー島に立ち寄りバンジージャンプに挑戦した。ハイウェイを飛ばしすぎてスピード違反で捕まり罰金を払わされたり、ロッキーの麓の町バンフでは、アメリカからバカンスでやってきた大富豪夫妻と仲良くなり、彼らの泊まる豪華なホテルに招かれてディナーをご馳走になったりした。簡易電動車椅子2台を車のトランクに積んでの旅だったが、特段不自由は感じなかった。観光施設やレストラン、お土産屋などはだいたいバリアフリーだったし、宿泊は、ハイウェイ沿いに立ち並ぶモーテルにふらりと立ち寄れば、どこもほとんど段差がなく車椅子でも泊まることができた。皮肉なことにカナダ本土では無く、むしろ静岡から成田空港までの日本国内での移動がいちばん不自由だった。
こうして今思い返すとどれも日常では味わえない稀有な体験ばかりだったが、これこそが旅の醍醐味であると言えよう。
コロナを理由にすっかり思考回路が内向きで小さくまとまってしまった自分自身に対して、そろそろ乾坤一擲(けんこんいってき)、ガツンと一撃を与えるような旅をしないと身体だけでなく心までが老いてしまうと、自戒する昨今である。
(奥村譲)